ディック・バトンさん死去 – フィギュアスケート界のレジェンド
フィギュアスケート男子で1948年サンモリッツ、1952年オスロオリンピックで金メダルを獲得し、五輪を2連覇した米国のディック・バトンさん(本名:リチャード・トットン・バトン)が、2025年1月30日に死去しました。享年95歳でした。このニュースは米メディアによって報じられました。
ディック・バトンの経歴
生い立ちと初期のキャリア
- 本名: リチャード・トットン・バトン(Richard Totten Button)
- 選手登録名: オリンピックおよび世界選手権には本名のリチャード・バトン(Richard Button)として選手登録していました。
- 生誕: 1929年7月18日、アメリカ合衆国ニュージャージー州イングルウッドに生まれる。
- スケートの始まり: 幼少期からフィギュアスケートを始め、才能を発揮。彼は地元のスケートクラブでトレーニングを重ねました。
競技成績
- 全米選手権: 1946年から1952年まで全米フィギュアスケート選手権で7連覇を達成。特に1948年には全米選手権での優勝を果たしました。
- 北米選手権: 1947年、1949年、1951年に北米選手権で3連覇を達成しました。
- オリンピック:
- 1948年サンモリッツオリンピック: 金メダルを獲得。この時、彼はフィギュアスケート男子シングル史上最年少の金メダリスト(18歳202日)となりました。
- 1952年オスロオリンピック: ハーバード大学在学中に出場し、2大会連続で金メダルを獲得。オスロ五輪では、史上初めて競技会での3回転ジャンプを成功させました。
- 世界選手権: 1948年から1952年までの間に5連覇を達成。特に1948年から1952年までの大会での優勝は、彼のキャリアのハイライトとなりました。
- ヨーロッパ選手権: 1948年に優勝し、当時のヨーロッパフィギュアスケート選手権では、ヨーロッパ以外の選手としても注目を集めました。
技術的な革新
- ダブルアクセルジャンプ: バトンはダブルアクセルジャンプを初めて成功させた選手の一人として知られています。この技術は、彼の演技において重要な要素となりました。
引退後の活動
- 解説者としてのキャリア: 引退後はフィギュアスケートの解説者として活躍し、独自の視点から選手たちの演技を評価しました。彼の解説はしばしば辛口で知られ、多くのファンに支持されました。
- 羽生結弦との関連: 羽生結弦さんが五輪で2連覇を達成した際には、「ブラボー、ハニュウ。(私の)記録に並んだね」と祝福のメッセージをSNSに投稿しました。
- 殿堂入り: 1976年には世界フィギュアスケート殿堂入りを果たし、その功績が認められました。
ホッソー
ディック・バトンさんは、フィギュアスケート界において数々の偉業を成し遂げたレジェンドです。彼のオリンピックでの2連覇や世界選手権での5連覇は、今なお多くの選手に影響を与えています。引退後も解説者として活躍し、後進の選手たちを見守り続けました。彼の死去はフィギュアスケート界にとって大きな損失であり、彼の功績は今後も語り継がれることでしょう。
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